梅雨時の晴れ間。
我が家からほど近い歴史的名所を散歩した。
当日の名古屋は最高気温33度!
途中の御用水跡街園でお父さんが空を見上げ「今日は暑いぞ~!」
と、自分に喝を入れるように呟いてたっけ(笑)
木陰は割とひんやりしていたが、木立を抜けると真夏のような陽射しが否応なしに降り注ぐ。
御用水跡街園を後にし、夫婦橋(御成通)の地下通路を抜けると・・・
今日の主役、黒川樋門が見えてきた。
黒川樋門(くろかわひもん)とは
黒川樋門は、明治初頭に矢田川の地下に伏越(トンネル)を掘り、庄内用水から分岐して黒川(堀川)へ水を入れるための水量調整用水門として設けられたものです。
石組みの樋門の部分は明治後期のものですが、木造の上屋は昭和末期に一度解体され、(なぜか)翌年に復元されたもので、人や自転車が渡れるようになっています。
石組みの間に見える3つの水門を樋門と呼びます。
黒川樋門は1992年10月に名古屋市都市景観重要建築物等に指定されました。
黒川樋門と名古屋の水の歴史
黒川樋門には名古屋の歴史がかかわっています。
江戸時代以前、この地方の生活中心は北西に位置する清須でした。
戦国時代の清須は手狭で、戦略上、水攻めに対する脆弱さが懸念されていたため、慶長15年(1610年)、徳川家康は地形条件のよい名古屋台地の北西端に名古屋城を築き、清須から町ぐるみで移転し、現在の町が作られました。
城下は次第に繁栄し、生活に必要な米、野菜、魚、木材など、大量な諸物資を海上輸送によって確保する必要がありました。
そこで名古屋城築城と時を同じくして、福島正則により海に面した熱田から城までの約6kmを開削し、堀川(運河)を作りました。
町は次第に発展し、生活様式の向上、産業の活性化に伴い、水需要の高まりが生じてきました。
しかし、水源を持たない堀川。
町民の要望に応えるため、名古屋市北部を流れている庄内川を用水源として確保することを考案し、明治10年(1877年)、庄内川と堀川を結ぶ水路を作ることにしました。
この水路の計画、設計に携わっていた技師が黒川治愿(はるよし)であり、これが由来でこの区間の用水路を黒川と呼ぶようになりました。
この水路は途中、矢田川という大きな川を伏越し、下流に大きな分水池を作りました。
この分水池を中心として庄内用水、志賀用水、黒川用水、御用水、上飯田用水にそれぞれ分水され、効率よく配水されることになりました。
各用水に水量調整のための樋門がつくられ、黒川用水につくられた樋門が黒川樋門です。
昔は樋門で囲まれた池が天然のプールとして賑わったそうで、記念碑が建てられている。
この日は夏日だったので、冷たそうな水に飛び込みたい気分に(笑)
樋門の上から夫婦橋(御成通)と黒川、御用水跡街園方面を望む。
夫婦橋の上には新しい三階橋が走っている。
メジャースポットなので、ネット上ではこの位置から撮った昔の風景をたくさん見つけることができる。
一度は解体され、復元された上屋。
石組みの樋門とともに、この佇まいは今後も残してほしい。
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